モザンビークにおける「市民社会」の歴史と現状
日時・場所 2004年10月30日 13:00~ 発表者:舩田クラーセンさやか氏(東京外国語大学、モザンビーク支援ネットワーク、TICAD市民社会フォーラム)
【講演概要】 ・モザンビークの国情 位置―アフリカ南部 タンザニア・マラウィ・ザンビア・ジンバブウェ・南ア・スワジランド・インド洋に囲まれる 国土の形状―南北に長い 現地NGO-殆どは国土の南端に位置する首都に本部を設置、そこから活動の為農村へ、地方にも中小のNGOが散在 1)アフリカにおける市民社会とは? ・アフリカにおける市民社会(Civil Society)論:1980年代に登場 ①1980年代半ば:フランスの政治学者バイヤール「アフリカに市民社会は存在しない」 *但しこの文脈における市民社会は西洋型の認識:国家に対抗する社会制度という意味合いにおいての市民社会 ②冷戦終焉後―「民主化支援」の活発化→市民社会の重要性も高まる ③1990年代―1980年代の議論「アフリカに市民社会が在るか無いか、西洋型市民社会を根付かせる必要が在るのか」に対抗する議論の登場 例)エケー ・アフリカ型市民社会;Primordial Public Association;原初型市民社会という見方 特徴:エスニシティ・血縁なども包含、クラン型社会統率の普遍性 cf.西洋型―伝統的権威は市民社会に入らない アフリカ市民社会の脆弱性の理由:個人の「繋がり」を尊重する cf.西洋型―個人志向が強い 外部から市民社会の枠組みを設定することへの疑問 理由:アフリカの人々自体が既に市民社会という単語を利用しているから →アフリカにおける市民社会の実態こそを知る必要性 2)モザンビークの歴史と市民社会の関連 ・モザンビークの市民社会 成立(モザンビークNGOであるLINKによる):1990年の憲法改正による政治的活動の自由の保障から 但しNGOの結成は1984年から:最初のNGO団体=KULIMA 植民地支配下とその後の主な動き 1920s 白人・混血者等によるアソシエーション運動、労働運動の活発化 1930~ サラザール政権による独裁体制確立 1949 NESAM誕生→抑圧の対象に 後に、FRELIMOが結成 1958 反サラザール独裁・民主化運動開始と弾圧 1960 ジンバブウェ、マラウィ等のモザンビーク人によるナショナリスト運動開始 FRELIMOの独立闘争を社会主義諸国と西側市民社会が支援;早期段階からの市民社会支援 1974 本国でのクーデター勃発 1975 モザンビーク独立 1977~92 モザンビーク内での武力紛争 1990 新憲法発布 1994 初の複数政党制選挙の導入(国連の支援:civic education;有権者に登録・投票の方法等を教える活動→西洋型の市民社会が流入 投票の様子:炎天下のなか列を作る有権者 政治情勢 過去二回選挙、2004年12月に3回目予定、与党FRELIMO 二大政党制に近い:北部中部にはRENAMO(モザンビーク民族抵抗)の市長誕生 独立後すぐに戦争開始→戦争要因で飢饉発生 常に存在する緊急援助の必要性→外国支援団体の流入;「援助漬け」の国 3)現地NGO団体の具体的活動 ・緊急援助から地域社会の開発へ:KULIMAの挑戦 80年代初期の食料危機の時代に活動開始:食料の代償に住民が何かを提供する →住民が主体性を失わない工夫 →中長期開発の視点の重要性 設立の経緯:カソリック教会=ポルトガル植民地政府支持:学校等の運営 司教は多国籍―非ポルトガル系も多かった スペイン、伊等の神父が1960年代に植民地支配の支援に疑問 1970年代にはヴァチカンも反植民地主義路線へ近づく イタリア人神父が国外追放される→独立後モザンビークに戻り、KULIMA結成 ・平和構築の事例:CCM・TAE(モザンビーク・キリスト教協議会の銃を鍬へプロジェクト)の挑戦 独立後の戦争→地雷・小型武器の拡散・復員兵士の復帰・紛争再発のリスク等の問題を残す 10年間紛争再発せず→アフリカで相対的に平和構築の成功例、高率の経済成長(~2000の大洪水) 政府だけでなく、援助の甘受に留まらない住民の功績 背景:独立後の武力紛争:ゲリラ戦主体の戦場→兵士だけでなく市民にも銃が拡散 武装解除の甘さ(国連など)、回収した武器庫の略奪等 *しかし、平和を願う人々の意思-RENAMOの選挙ボイコット呼びかけに関わらずRENAMO影響下の地域でも投票が行われた →依然残る武器への住民らの恐怖:武器の在り処は住民が知っている 活動:ニアサ地方での活動開始―首都から最も遠い僻地;アクセスの悪さ→援助が届かない 武器と交換するのは、鍬でなくミシン・自転車等も 武器隠匿の理由:RENAMOが隠すように脅した→沼地などへ 10年経っても武器は散在←市民のイニシアティブ 政府・警察によらない市民団体主体による武装解除←世界的に例がない。 政府から武器取り扱いの特許―リベリア等で同様の試み 紹介:武器を利用したアート政策―平和への希望 ・CCM-キリスト教協議会 カソリック―ポルトガル支持 プロテスタント―反ポルトガル →プロテスタント弾圧→さらに反発 初代FRELIMO書記長モンドラーネ←プロテスタントに育てられる 独立後、モザンビーク社会主義化;宗教禁止 →政府関係者の多くがプロテスタントでありながら、信仰を禁止されるという状況に 戦争への憂慮→RENAMOとFRELIMOを紛争終結のための円卓会議をカソリック教会とセッティング 成功の理由:政府高官とのチャンネル保持 その後、平和定着の為の活動へ 結論:市民レヴェルからの平和構築活動が昔から存在した 平和構築への伝統を持っていた 課題:政府とのチャンネルから、独立性保持にリスク ・環境問題に取り組むNGO:LIVANINGOの誕生 援助された農薬の放置 オブソレート農薬;期限切れ・未使用農薬→放置 農薬だけでなく容器・汚染土壌も指す 農薬の処理施設がアフリカに無い→ヨーロッパへ再送 \300,000/1t 処理態勢(未使用品の管理者、処分者の決定など)が未整備 不適切な援助 1990年代から問題に→日本は98年まで懲りずに送り続ける マプートの古いセメント工場に集結させて処理→野外に放置→大洪水→水浸し 国際機関の選択(焼却処分)への疑問 →Livaningo(地元環境保護NGO)の誕生「ヨーロッパでなら密集地の古い工場で焼却処分するのか」 ・ ヨハネスブルクサミット(2002)への参加:モザンビーク市民社会の協働の第一歩 アクセスの良さ(モザンビークから車で7時間)→モザンビーク市民社会の活動成果の報告 市民社会セミナーの開催-モザンビーク市民社会の「黄金時代」 全モザンビークで行われた調査・報告書の作成-地元住民の優先順位は 1地元経済の発展、特に最も弱い立場にいる人間との関係において 2教育 3保健衛生 4持続可能な農業と市場へのアクセス 5対外債務 6インフラ整備 7自然災害に対するストラテジー 8環境 9グッドガヴァナンス 10情報へのアクセス ・貧困削減プロセスへの市民参加を目指して:G-20の挑戦 IMF/世銀の構造調整・重債務 貧困削減ペーパー(ポルトガル語ではPARPA) →モザンビーク政府高官はそれ以前1980s(社会主義時代)から用意していたと主張 →モザンビーカン・イニシアティブ、但し市民社会の参加には疑問 PARPAに市民社会の声を;貧困者の声を聞く必要性 モザンビーク市民社会の意見:第二のPARPAは一緒に作りたい、オブサーベーションには参加したい、ヨハネスブルクサミットの経験を活かしたい →G-20の結成へ G-20(Group-20) 組成―宗教団体、労働組合、雇用主側団体、NGOなど 実績―146郡で6558人にアンケート調査(貧困報告) 配慮された調査対象;73%は農村で、ジェンダー・年齢にも考慮、農民最多、文盲にも調査、企業等諸機関にも調査 調査結果:貧困の定義―Indigencia(「精神的資質の欠如・貧困」)が最多→経済的、社会的、ジェンダー的要因と考える割合が比較的少ない 病気の治癒、44%が3ヶ月以上継続 学校に行かない理由;資金不足 伝統権威に解決を委ねる;政府等の割合が少ない →貧困に直面しがちな人々がどのように自分達の状況を分析しているかを明らかにする 4)我々に何ができるのか ・貧困削減に関するNGOヒアリングの結果 「モザンビークは貧しくない」 豊かな伝統文化・音楽、楽しい生活、恵まれた資源 貧しいとするならば資源配分の問題→汚職が原因 ・モザンビークに対して我々に出来る事 モザンビークでの直接活動:農業学校の支援など NGOの支援 納税者としての支援 モザンビーク:二国間援助の首位を占める;AU議長国にもなった 巨額援助をより草の根の人々の役に立つものに転換 ドナーとしての圧力-汚職の改善、透明化への関わり、貧困者参加の努力支援 成功例-農薬問題 2000年発覚→政府との交渉(議員による視察・話し合いなど)→資金援助決定 政府職員とNGOが連携して作業 未だにずさんな管理体制、焼却の危険性→予防教育が重要→住民啓発活動にLIVANINGO関わる オブソレート農薬の悲劇―汚染土壌の拡散 例)伝統的漁法;一種の毒殺漁に使用→汚染された魚が消費者の口へ ドナーの熱意による職員の意識変革・英国NGOのモニター参加 第二段階に移行-農薬の危険性を住民に知らせる啓発活動や関係者間の調整 結論:やればできる ・市民社会との関係 NGO12団体との面談(2004年9月)の結果: 自分たちがやろうとしてもできないことをやって欲しい 草の根資金協力では人件費が出ないという問題 →現地NGOの負担増;活動のキャパシティが圧縮される →モニタリング費用も含めた支援の必要性 モノをつくるのには使えるが、日々のキャパシティビルディングにカネが出ない TICADで提言しても聞いてくれなかった →日本の納税者の話なら良く聞くのではないか 環境・貧困・AIDS等を一緒に考えていくことによって、政府の透明性を(現地機関だけでなく国際的にも)確保して欲しい 【質疑応答 14:10~】 質問者: G-20のアンケートの回答者にはムスリムが多いが、全体の人口比を自然に反映しているのか、ムスリムがマイノリティである事の結果か、調査地域の反映なのか、またムスリムは何語を話すのか 舩田: 北部は殆どムスリムであり、恐らく40%を占めている、全体の人口比を反映しているかもしれない。他方、調査地域を州ごとに見ると北部でかなりの回収率があり、調査地域自体にムスリムが多い事を反映している。調査地域の選定理由はわからない、(G-20に参加している)ムスリム団体の影響力かもしれない。ムスリムの使用言語は殆ど各自の母語であるバンツー系の言葉。教育を受けた者はポルトガル語ができる。高齢者に関してはポルトガルによる国境閉鎖(1961年)までタンザニアで出稼ぎをしつつアラビア語を学習していた人々がいて、彼らはアラビア語やスワヒリ語も使用できる。 質問者: G-20の組成について、宗教・NGO等は政府とのリンクが薄いと思われるが、経済団体はより強い(リンクを持っている筈だ)。それなのに彼らが敢えてPARPA作成への参加を希望するのは何を意図したものなのか。 舩田: (今後の調査課題であると回答しつつ)PARPAは元来政府がつくったもの。世銀等の指示を受け政府がステイクホルダー(関係者)を集めて会議を開催したものの、参加してみれば政府がこれらの関係者の話を聞く気が無いことに気付き、参加者がG-20を結成した。経済団体にしても企業等1000件の雇用者側機関に調査するなど積極的に活動に参加しているから、自分たちの政府とは違う声を政策に反映させたい気持ちがあるのではないか。 質問者: NGOの参加者の組成について、一般住民から出てきたというよりも、政府高官等エリート層により構成され、政府と一般社会の中間にある市民社会層とも言えるべき層を形成している印象を受ける。NGOにおける関心を持つ一般住民からはどれだけの参加があるのか。市民社会は安定した存在であるのか。 舩田: 市民的公共団体は、基盤が個人である点で弱く分裂等をしやすい。CCMのように宗教団体のネットワークを持った組織は結束・権力も強い。理由は海外からの援助や、信者としての安定性などである。イスラーム運動や協議会は市民的公共団体に向かっているものの、原初的社会の性格が強く、彼らの組織力は強い。以上から考えるとモザンビークの社会は断片化している。伝統的共同体がFRELIMOや大統領といった政治的共同体概念から剥離している―前者は移動する可能性があり、「空間領域」は流動的。伝統的チーフは権威を持つが、それを維持するために良きチーフである事が必要である点で政治権力と違う。NGOは目的を持って(この共同体と)接する場合もあるが、目的・資金が無くなれば離散してしまう為、Civicな空間共有は無い。「伝統的な」公共空間を西洋では市民社会とは呼ばないが、アフリカ研究者の多くやアフリカ人は一種の市民社会であると考える。 質問者:NGOとクランとの関係はどの程度あるのか。またNGOと政治空間との関係は。NGOはどの程度社会の個人個人に浸透できているのか。 舩田: NGOは直接クラン・リネージ社会と関わることも多い。問題はどれほどクラン・リネージ社会の個人個人に関わっているかで、これは各NGOの力量によるものが多い。G-20は、調査の過程でかなりの度合いでこれに迫れたと考えられるが、その理由は調査関係者の中にNGOだけでなく、各種宗教的協会等も含まれたからではないか。 質問者: 例えばタンザニアでは、ヨーロッパ系、都市部系NGOが多い。貧困削減ペーパーづくりのプロセスにタンザニアも同様に批判があった。ワークショップを行う際に各州の中心地で行ったが、多くのNGOが地方に基盤を持っていなかった為、ワークショップ内で意見を反映されない事が多かった。但しモザンビーク程の大規模な調査はされていない。モザンビークの場合、最初からNGOに声が掛かっていなかったのか。タンザニアの様に貧困の構造を考えるとNGOが締め出される運命だったのか。 舩田: 調査の際には、一度目には(NGO側の主張では)NGOは知りもしなかった。政府にも参加させるという考えが無かった。ヨハネスブルクサミットに向けての動きが重要で、調査に多く参加している州ほどアンケートの回答率も高い。どの程度反映されているかを考察することは難しいが、調査が継続的に行われていることは興味深い。 質問者: PARPAの土台になるものを政府が準備していたということは、貧困を政府が事前に問題視していたということ。問題視していた部分はどこか? 舩田: NGOは、土台の策定に参加していない事、資源配分の問題、希少な資源を効果的に配分していない事などが問題であると主張している。土台が用意されていた理由としては、モザンビークがスローガンに留まらない社会主義の実現を目指していたからではないか。ケニア等とは違い、独立~1980年代まではモザンビークが最も低開発な国であり、独立時大卒6名しかおらず、初等教育・医療も劣悪で、産業を担っていた白人の流出などで国の機能がストップした状態の中、社会主義による底辺の人々の救済、エンパワーメントを目的としていた。1970年代に行われた地域セクターの選挙は、クラン的・リネージ的な生活空間の解体と社会主義的な政治空間の創設を目指したものだったが、選挙人による被選挙人の選定がリネージのチーフ選出と何ら変わりなかった場所が多く、政府は「伝統的」チーフの立候補を禁じた。その後、村長は党員から選ばれ、現実の人々の生活・公共空間と上から公共空間の差異が発生した。ただし、FRELIMOが、「伝統的」な秩序を崩壊させようとした理由は、植民地政府がこのシステムを利用し、被支配者に対する強制労働や税の徴収を行っていたからである。この状態を変化させるために、FRELIMO政府は、「伝統的権威」を追放し、新しく平等に選出された人々に国造りを支えさせようとした。NGOが登場することになったのはこれらが全て失敗に終わってからの事で、故に1980年代からの登場となった。それを牽引したのが、比較的身の危険の少ない外国人、それも政府と関係を持った人々だった。(KULIMAやCCMなどの例) 質問者: G-20代表(Negrao教授)が著した、モザンビーク歴史書の出版禁止について詳細を教えてほしい。 舩田: 発禁になった歴史書は彼ともう一人の教授の著作であるが、FRELIMOは唯一対外的に権力を与えられ、唯一武器を持って戦った故に独立を付与されたと言われている。1974~75年にポルトガル本国のクーデターで権力の空白期が存在した際、ポルトガル軍の戦意喪失に乗じてFRELIMOは勢力を拡大した。これは白人入植者にとって不都合な事態で、FRELIMOが独立を獲得するまでの間にモザンビーク出身の白人入植者が暴動を起こした。ラジオ局の占領や、南ローデシアの様な一方的独立宣言などを行なおうとし、革命後のポルトガル国軍(モザンビークに残留中)とFRELIMOによって押さえられた。一方アフリカ人側でもFRELIMOの他にも北部に解放闘争を行った団体があったが、Negrao教授らはこの団体が活動をしていた地域(TETE)を研究対象にしていた。従ってFRELIMOは唯一の闘争機関ではなく、全員に賛成されたわけでもないということが、この論文では書かれている。更には戦争の過程で様々な人々を粛清した歴史もある。故に歴史書が出版されるとFRELIMOの権威、つまり唯一闘争し、唯一独立を勝ち取ったという前提が危うくなる。但し、最近FRELIMOの暴露本が出版され始めているため、じきに公開されるのではないか。 質問者: 宗教系NGO団体が多い。スーダンではキリスト教系の団体の援助が問題となっていたが、モザンビークには布教活動を伴った援助という問題はあるのか? 舩田: 現在、布教目的の援助が多いことはイスラーム系であるが、これは最近の現象。宗教が禁止されていたので、布教行為自体が国家に許されなかったからである。キリスト教やイスラームの急速な浸透は20世紀以降の現象で、それ以前人々は血縁関係に基づく伝統宗教を信仰していた。この時の(布教していく)方法は、病院を作り、そこに集まる人々に対し改宗・教育を行うというものだった。後にポルトガル政府によりカトリック以外による同様の行為は禁止された。独立後は宗教が禁止された。解禁になった現在は、豊富な資金と福祉をたてに勢力を急速に拡大している中東系イスラーム教徒と、世界・・・というプロテスタント系の団体が問題となりつつある。ただし今回登場したのは既に信者を持つ団体で、今更布教活動を伴った改宗が問題になることはない。 質疑応答終了・閉会 14:40頃