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Voice from Africa アーカイブ

2006年11月23日

第1回:「木を植える時、私達は平和と希望の種を植えている」

第1回:「木を植える時、私達は平和と希望の種を植えている」

■ワンガリ・マータイ(Ms.Wangari Maathai)さん

■マータイさんは、環境保護問題をケニア及びアフリカ全域にて啓発活動し、持続可能な開発のために貢献して来ました。アフリカ人女性のノーベル平和賞受賞は初めての事です。何度もモイ前政権時に投獄されたにも関わらず、アフリカ女性の地位向上のためにも貢献しています。環境保護が安全保障につながると指摘されています。

現在ケニア共和国環境・天然資源副大臣(03 年に就任)。1940年ケニア(ニェリ)出身。ピッツバーグ大学にてMA(修士)、ナイロビ大学にてPhD.(博士)取得1977年NGOグリーンベルト運動を設立し、草の根活動を実施。2002年に国会議員に当選。

第2回:「命をもたない統計数字の問題ではなく、一人ひとりの命を平等に扱うかどうかという問題なのです!」

第2回:
「命をもたない統計数字の問題ではなく、一人ひとりの命を平等に扱うかどうかという問題なのです!」

■ザッキー・アハマット(Mr. Zackie Achmat)さん
(1962年生まれ。反アパルトヘイト運動、レズビアン・ゲイ解放運動を経て、1998年に治療行動キャンペーンを設立。2003年ジョナサン・マン世界健康・人権賞など受賞多数)

■アハマットさんは、南アフリカのHIV感染者・エイズ患者の当事者団体、治療行動キャンペーン(Treatment Action Campaign: TAC)のリーダーです。ご自身も感染者で、貧しい患者・感染者でもエイズ治療を受けられるようになることを求めて、南アフリカ政府や国際社会に働きかけてきました。感染者数やエイズによる死者数といった数字が一人歩きすることも多いなか、数字に還元されない一人ひとりの命や人生への想像力を失わないようにしたいものです。(牧野久美子)

第3回:「私のおじいさんは若い頃、奴隷商人の手先から逃げ回るのに忙しい毎日を送っていました」

第3回:
「私のおじいさんは若い頃、奴隷商人の手先から逃げ回るのに忙しい毎日を送っていました」

■ムポイ ムポイ カントさん (コンゴ民主共和国出身、都内在住)

■カントさんのお父さんはご自身が亡くなる1年ほど前、自分の父親であるカルビさんの生涯を詳細に綴った手紙を日本に住む息子のもとへ送ってきました。
便箋にフランス語でびっしりと書かれた文面によると、1829年生まれのカルビさんは兄弟5人とともにアラブの奴隷商人に捕まりましたが、旅の途中、カルビ兄弟は奴隷商人から銃を奪い、捕らえられた奴隷たちを全員助けたのだそうです。奴隷貿易は歴史教科書の中の話だと思っていましたが、アフリカでは生々しい記憶として個人の名前とともに語り継がれているのだと思いました。(下村京子)

第4回:「わたしたちは、お金が欲しいのでは無い!自分たちの国の開発に、自分たちが参加したいのだ!」

第4回:「わたしたちは、お金が欲しいのでは無い!
              自分たちの国の開発に、自分たちが参加したいのだ!」

■マジード・ンジャイ氏(Mazide N'Diaye) セネガル出身
 アフリカ開発フォーラム(FAVDO)代表 (93年当時)
 セネガルに拠点をもつ、アフリカ大陸全般をカバーするNGO協議体。

■1993年の東京アフリカ開発会議(後にTICAD I と呼ばれる、政府・国際機関等による会議)にはNGOや一般市民の参加は、どの国、地域からも認められませんでした。このような状況に対し、日本国内のアフリカの開発に関心を寄せる人々が、アフリカのNGOからゲストを招き、1993年10月に独自に「アフリカシンポジウム」を開催しました。そのシンポジウムで基調講演したマジード氏の言葉です。

アフリカへの援助と聞くと、ともすると先進国が上で途上国が下、貧しい人々に支援してあげるのだ・・と思いがちです。しかし、アフリカでははるか昔から人々の生活が延々と営まれ、地域自立への取り組みも多数行われています。「自分たちの国造りに、自分たちが参加したい」という当然の言葉に、改めて開発に関わる者の心構えと、NGO活動の重要性を教えられました。(のり子)

第5回:「僕はお金を追いかけるビジネスマンより、農産物の品質を大事にする農民を目指したい」

第5回:
「僕はお金を追いかけるビジネスマンより、農産物の品質を大事にする農民を目指したい」

■先日村周りで、元気のよい農民に出会いました。その青年の一言です。

■哲学者の風貌をしたエチオピア人がまわりに多いので、こうした言葉を農業青年から聞いても驚くことではないかもしれませんが、ちょっと感動はしました。

エチオピアでは農業の市場化が叫ばれ、農業研究や普及も市場ニーズにあわせた農業生産の推進を合言葉にしています。しかし、現実には多くの農民は小規模で資力を持たず、必要な技術や市場の情報も行き渡っているとは言えません。そのような状況の中では、やはり資力と情報へのアクセスを持つ流通業者が儲けの多い商売をしているようです。

この青年は農民の中でも努力と工夫を重ねて規模拡大をし、自ら農産物を市場に直接出荷しています。われわれから見れば、こうした才覚のある人たちは流通業に流れていきそうですが、農業生産にとどまりたいという力強い言葉が返ってきました。
儲かる農業を目指す、この青年のような農民の存在は、村を変える原動力になり、そこに大きな可能性が見えました。
(白鳥清志:在エチオピア)

第6回:「かつてアフリカより貧しかった東アジアの成功と、日本がその成功に果たした役割はわれわれも承知している。しかし、・・・・。」

第6回:
「かつてアフリカより貧しかった東アジアの成功と、日本がその成功に果たした役割はわれわれも承知している。
しかし、みな欧米諸国のスクリーニングを介して得た情報しか知らない」

■コートジボワール政府の官房長官だったアテイ氏の発言

■2002年9月のクーデター未遂事件の前日のこと。
私が黒川大使(当時)とともにアテイ氏を訪問した際、その前月のWSSD(ヨハネスブルグ・サミット)会合におけるアテイ氏のバランス感覚ある質の高い発言に言及しつつ、国際協力銀行が音頭を取って日本大使館や国際協力機構等も参加しての“アフリカ開発セミナー”をアビジャンで開催したいがいかがかと申し出た際、上記発言をわれわれに対して行った。

アテイ氏は日本を何度か訪問し、第3回アフリカ開発会議(TICAD III)の準備会合にも参加している。
彼はセミナーの申し出について、「当地でやっていただければ、一度に多くのアフリカの若者たちも話を聞くことができる。私が周辺国にも声をかけて参加を呼びかけたい」と言い、さらに「欧米の諸国はわれわれサブサハラが一定のレベル以上に発展することを本当は望んでいないのではないかと最近疑うようになってきた」とも発言したのが印象的であった。

その翌朝、あのクーデター未遂事件が発生し、その後アテイ氏とも連絡ができずにいる。

ちなみに、同セミナーはその後、ダカール、ダルエスサラーム、ナイロビの各地で開催し、最後に経済協力開発機構(OECD)本部(パリ)とTICAD III(東京)でも開催した。(橘田正造)

第7回:「ぼく、スワヒリ語が苦手なんです・・・」

第7回: 「ぼく、スワヒリ語が苦手なんです・・・」

■ナイロビの中学生、カマウくんの告白

■数年前ナイロビの知人宅を訪ねたとき、何を思ったのか長男のカマウくんが学校の成績表を私に見せてくれました。わざわざ他人に見せるなんてさぞやいい成績なのだろうと思いきや、教科としてのスワヒリ語も英語もぜんぶ赤点すれすれ。

カマウくんの家族が普段使うのはキクユ語です。スワヒリ語は英語と並びケニアの公用語ですが、幼い頃から身に付いた言語以外で教育を受けるのは容易なことではありません。もっといえば、国の発展の足かせになりはしないかなどと考えてしまいました。でも、なんで成績表を見せてくれたんだろう?(下村京子)

第8回:「人々の栄養改善のため、この木に期待しているんです」

第8回:「人々の栄養改善のため、この木に期待しているんです」

■昨年9月、ザンビアのチペンビ農業大学(Chipembi Farm College)を訪れた筆者に、S.G.Mulenga副学長が大学内の野菜農園を案内しながら話してくれた言葉です。

■チペンビ農業大学は、人々が安価で栄養分の高い野菜を摂ることができるよう、野菜の品種やよい土作りについて研究しています。農園ではさまざまな野菜を育てていますが、中でも「Lukina」というマメ科の木は土壌改良に役立つとのことで、ムレンガ副学長はこの「Lukina」に期待しているのだそうです。

ザンビアでは子どもの栄養不足が深刻な問題になっています。私が訪ねたGeorgeコンパウンドでは、地元のボランティアの方々が、母親に対する栄養改善指導を幼児の体重測定日に実施していました。そこでは、子どもの体重を量る傍らで、ボランティアと母親たちが栄養価の高い料理を作り、食べて覚えるという方法をとっています。その際の料理は有料で、利益はボランティア活動や食材の費用などへ還元されるそうです。

大学でよい野菜作りのための研究をし、コミュニティーでは女性たちが栄養改善を指導しながらわずかな収入を得る。そんな姿を見て、自助努力の重要性を再認識しました。(堀尾 藍)

第9回:「Haaya!(ハーヤ)」

第9回: 「Haaya!(ハーヤ)」

■タンザニア、ケニアなど、東アフリカで話されているスワヒリ語のあいさつのひとつ。
話の最後に用いられる「以上」という意味合いの大変便利な表現で、英訳は “That's all”となっていることが多い。話の最後だけでなく、仕事が終わって帰る前などにも使える。

■そもそも、タンザニア人の生活に欠かせないものは、砂糖とあいさつ(例外あり)。
あいさつを忘れてはお話にならない。でも、このあいさつが時として大変に長い長い。「家族は元気?」「何か新しいことは?」「あの木は何だ?」などなど、路上で10分、20分は当たり前。おしゃべりはどこまで続くかわからない。

そういうとき、このコトバは、実に使い勝手がよい。相手の意見を聞きたくないなら、「Haaya!」 で打ち切ればよい。あるいは、こちらが一方的にしゃべってそろそろ飽きたら 「Haaya!」と言って終了することもできる。
ただし、どちらの場合も、何か適当な言い訳をすること。言い訳の中身は何でもよく、言い訳をすることが何よりも重要である。今後の人間関係を円滑にするために覚えておきたい大人のマナーである。
(河内伸介)

第10回:「人間を癒すのは人間のみである」 

第10回: 「人間を癒すのは人間のみである」      

■西アフリカのことわざ

■私がアフリカの勉強を始めて、勝俣誠教授の授業の中で出会った言葉です。
コミュニティーや家族、親戚のつながりが強いアフリカでは、人とのつながりがとても重要であること、アフリカに訪れ人と接し、初めてこのことわざの重さを感じることができました。

1998年にゼミでガーナへ訪れた際、マラリア予防薬のクロロキンで体調を崩し、その日のスケジュールをキャンセルし、休むことに(前代未聞といわれているのですが、在ガーナ日本大使館の玄関前に嘔吐!)。
現地コーディネーターの家族の方が気を使って、私をひとりにするのはかわいそうだからと一日そばにいてくれました。薬も大切だけど、人がそばにいて安心できれば、治りもはやいと諭してくれたのを忘れることができません。皮肉にも病気にならないために飲んだ薬で倒れ、ことわざどおり人に癒されて治りもはやかったのでした。(伊藤 香奈子)

第11回:「怖くて検査に行けないやつがほとんどだよ」

第11回: 「怖くて検査に行けないやつがほとんどだよ」

■ケニアの市場で古着を売る若者 カマウ

■カマウは私の勤務地近郊の街ボイの市場で古着や靴を売っている若者たちのリーダー的存在。
ふと飛び出したHIV/エイズの話題のなか、こんな話をもらした。ケニアでは全国の病院や診療所でHIV/エイズの無料検査を行っているが、感染の疑いがあっても、真実を知ることや周りからの目が怖くて検査に行けない若者が多いという。
ケニアでのHIV感染者は約120万人、年間15万人以上がHIV/エイズによって亡くなっていると公式には発表されている。しかし、実際の感染者は250万人を超え、全国民の7%以上に及ぶといわれている。(在ケニア青年海外協力隊員/三輪芳和)

第12回:「彼らは、ウイッチ(魔法)をまだまだ信じているんだよ」

第12回: 「彼らは、ウイッチ(魔法)をまだまだ信じているんだよ」

■ピリ氏 (ザンビア内務省次官補を勤めた後、JICAザンビア事務所で働いていた上級現地所員)のことば

■事務所では10人ほどのザンビア人が現地職員として働いている。総務・人事を担当していた私は、ある時期、運転手同士の仲が悪くなってきたので、諍いを治めようとその理由を尋ねたが、相手方をなじり合うばかりで要領を得ない。
そこで、現地職員のまとめ役であるピリ氏に事情を聞くと、「ウイッチ(魔法)を掛け合っている。21世紀を迎えようとしているザンビアの、これが現実なのだ」と苦笑をしながら答えてくれた。

田舎であればともかく、ザンビアの首都であるルサカに住み、JICAという援助機関に働く職員(それも片方の運転手は30代前半)でもか、と驚いた次第である。(鍋屋)

第13回:「機会が欲しい!能力を発揮する場が欲しい」「Let's achieve something!」

第13回:
「機会が欲しい!能力を発揮する場が欲しい」「Let's achieve something!」
             (ナイジェリア出身、都内在住、男性20代)

「今度はANCには投票しない。彼らは何もしてくれない。Job creationを実現してくれる党に投票する」
             (南アフリカソウェト在住、女性18歳)

■上の二つは日本、南アと離れた場所で、若いアフリカの方から聞いた言葉です。
男性は、故国で弁護士の資格をとっていますが、それを活かせる場は祖国にも日本にもないようです。
南アの女性は、将来医者になりたい希望を持ち、試験を受けるのだが本が欲しいと言っていました。日本の受験生と違って、朝からブラシで床を磨き朝食を作っていました。道を一緒に歩いている時、いきなり、上の言葉を発したので驚いたのを覚えています。若い人たちの能力を活かし、その沸沸とした思いが叶うような「何か」を目に見える形にしていかなくてはと思います。(中島千秋)

第14回:「それは、呪い(curse)ではなく、祝福(blessing)なんだ。なぜなら・・・」

第14回: 「それは、呪い(curse)ではなく、祝福(blessing)なんだ。
          なぜならトラブルがおきたとき、誰かが必ず助けてくれるから」
                          
■ザンビア在住、男性20代

■これは、ザンビアで難民キャンプの調査中、度々起きたトラブルに、思わず「私はのろわれているのかもしれない」といった言葉に対して、助けてくれたザンビアの青年が言った言葉です。

実際にタイヤが4回パンクしたときも、ファンベルトが切れて車が動かなくなったときも、誰かが必ず助けてくれました。

アフリカは決して、パラダイスではありません。しかし、メディアで報道されているような「飢餓」「貧困」「大量虐殺」「人権侵害」といった悲惨な状況がアフリカの全ての現実を伝えているわけでもありません。
アフリカでは(少なくともザンビアでは)、「相互互助システム」とでもいうべき困った人を助ける精神があり、そのような精神がある限り人々が直面する問題を解決し、明るい未来を築くチャンスはあるのではないかと思います。いかにそれを制度的に構築していくかが、今後の課題ではありますが・・・・。(杉木明子)

第15回:「呪術師は、ひとを攻撃する力と守る力を持っています。金持ちになりたい、・・・」

第15回: 
「呪術師は、ひとを攻撃する力と守る力を持っています。
金持ちになりたい、異性を自由にしたい、というような人々の欲望をかなえることが出来ます。
高いお金をもらって呪術を使う。呪術師は、その力を社会のために役立てるようにしなければならない」

■ジンバブエ共和国のショナ人大使館スタッフより

■近代的な社会制度の中で共存する呪術師の存在は、人々の心の中で少なからず大切にされ続けているものです。
(よこやまひとみ)

第16回:「世界銀行の構造調整プログラムは、市場経済万能の先進国理論を先行させ アフリカ下層貧民たちを痛めつけた」

第16回:
「世界銀行の構造調整プログラムは、市場経済万能の先進国理論を先行させ アフリカ下層貧民たちを痛めつけた」

■アデデジ教授 (Prof.A.Adedeji ナイジェリア人 元国連アフリカ経済委員会事務局長)

■1993年TICAD I の直前の10月1日、国連大学で「アフリカ開発シンポジウム」が開催されたときの発言である。

あまりにも率直な世銀への批判だったので、何百人という聴衆の耳目をそばだてさせた光景を、12年後の今日でもありありと想起することができる。

日本のアフリカODAも、そのピークであった80年代後半から90年代前半にかけての約3分の1が構造調整型であった。しかし、1990年の東西冷戦終結を契機として、構造調整を含むアフリカへの全ドナーのODAは激減した。それ以後も「貧困削減」の実績は上がっていない。

TICAD I でのアデデジ教授の批判をもっと深く受け止めて、(1)アフリカのオーナーシップと、(2)貧富格差是正に焦点を合わせておくべきだった。遅ればせながら、それがTCSFの最大の使命であろう。(高瀬国雄)

第17回:・乗り合いバスに書かれた言葉

第17回:・乗り合いバスに書かれた言葉

■タンザニア

■私が最初に面白いなと思ったのは、西アフリカのガーナに初めて足を踏み入れたときのことである。
1958年のことで、軽トラックを改造したような乗り合いバスが、首都のアクラから郊外に向け走っており、それらの車に各々標語のような言葉が書いてあったのである。

宗教的な意味合いをもったものが多く、I trust in God などがあった。なかには格言のようなものも多くあり、そこに住民の心情が読み取れて、アフリカの人たちの心を知るひとつの手がかりになると考えるようになった。

このことは、ケニアのナイロビに、スワヒリ語を習得する日本人学校を創設した星野芳樹氏も書いていた。私の覚えているのは「Today Friend」号というのがあり、星野氏のコメントで、「これは今日は友達だが明日は知らないよ」という、都市の生活では明日のことは未知であるという生活の厳しさを表したもので、アフリカ人の生活観がよく出ている、と書かれていた。

それ以後、私もアフリカに行くごとに、乗り合いバスや路線バスの標語に気をつけてみるようになり、最近タンザニアでつぎのような言葉に出会った。

(すべてスワヒリ語)

「Kuteleza si kuanguka (すべることは倒れることではない)」
これはダルエスサラームから北部のルショトに行く路線バスに書かれていたもので、「まだやり直せるよ、取り返しがきくよ」という意味であろう。日本でいう「七転び八起き」の意味に近い言葉である。

これは私が実際に見た言葉であるが、以下の4つは、ムワンザに住むブクワという名前の人に、こんなものもあると教えてもらった言葉である。

「Maisha ni vita (生きることは戦いだ)」
 これはそのまま、生きることは大変だという意味。

「Ubinadamu Kazi (人間は苦労から免れない)」
 人の人間性は、やった仕事(苦労)に現れる。人間とは苦労するものだ。

「Shoka moja mbuyu chini (ひとつの斧でバオバブをも倒す)」
 切れ味が悪いたった一本の斧でも大木を倒すことができる。努力せよという意味。

「Jaribu kuyapata (チャレンジは大事だ)」
 くよくよ悩むよりも、それを取ろうと試してみなよ。

神に対する信仰を題材にしたものは、依然として多い。タンガからキリマンジャロ方面に行く路線バスの正面に、行き先の表示部分についていた標語に次のものがあった。

「Amanii ya Buwana (主の平安)」

(吉田昌夫)

第18回:「次に生まれる時もナイジェリア人でいたい」

第18回: 「次に生まれる時もナイジェリア人でいたい」
 
■ナイジェリア人 20代女性、20代男性、30代男性

■ナイジェリア人の友人と話す中、ある一人が「次に生まれるならどの国に生まれたい?」という面白い質問をした。

その友人たちは、ストのため大学をストレートに卒業できなかったり、大学は卒業するけれども働き口がなかったり、その他先進国では必要としない苦労・努力をしてきていた。ナイジェリアは、ご既知の通り、タフな国である。しかし、それにもかかわらず、私がこの質問をナイジェリア人にすると、今のところ百発百中で「ナイジェリアに生まれたい」という答えが返ってくる。

さて、日本人に同じ質問をするとどれだけ「次に生まれる時も日本人でいたい」という答えが返ってくるでしょうか。私にとって、幸せとは物品や金で計れないことを考えさせられた質問でした。(石曽根道子)

第19回:「権利とは物ごとを選択する自由だと思う」

第19回: 「権利とは物ごとを選択する自由だと思う」

■スーダン連邦社会福祉省の女性のエンパワーメントとジェンダー主流化 プロジェクト担当者の発言

■スーダンでは、国連の推計によると、89%の女性がFGM(女性性器切除)を受けているとされる。
近年スーダン政府はFGM廃絶プロジェクトを連邦保健省・連邦社会福祉省を中心に進めている。

2005年10月に連邦社会福祉省担当者へのインタビューの中で、廃絶の可能性をたずねたところ、FGMが慣習として長く続けられてきたために、時間がかかる可能性を指摘した。彼女はスーダン女性自らが「FGMを受けることを選択」してきた状況を配慮する必要があると述べた。

彼女は、FGM問題で重要なのは女性の教育であり、意識を変革させる重要性を続けて指摘していた。

彼女のセリフはFGM問題が、単純に人権問題として割り切れない状況を示すと同時に、「知ること」の重要性を指摘している。女性たちに伝え、物ごとを改善していく、彼らの努力に期待したい。(長島美紀)

第20回:「夫婦共同登記?私は関心ないわ。ここじゃぁ誰もがこの土地は・・・」

第20回:
「夫婦共同登記?私は関心ないわ。
ここじゃぁ誰もがこの土地は私のだって分かってるし、旦那の親戚ともうまくやってるしね」

■ウガンダ東部の農村に住む女性の発言

■一般に女性の土地所有権は男性のそれに比べ弱く、アフリカにおいても女性による土地所有権の確立、土地へのアクセスの拡大を叫ぶ声は多い。しかし、いわゆる西洋的な個人所有権が確立されていなくとも、例えばウガンダの女性はなんらかの形で土地へのアクセスを手に入れている。

昨今世界銀行をはじめとする国際機関などが推進し、パイロットプロジェクトを展開している、夫婦共同登記について尋ねてみた。

通常土地の登記は家長の男性の名前で行われる。しかしそれでは登記人の死後、未亡人の土地所有権を法的に保護することが難しく、登記人の家族や親戚にそれまでその女性が利用していた土地を奪われてしまう可能性が否定できないため、そのような問題を未然に防ぎ女性の土地所有権を確立するための事業である。これによって防ぐことができる土地問題や守られる女性の権利は確かに存在する。

しかし、この発言の女性のように、既存の状況において周囲と良好な関係を保ち土地へのアクセスを確保している場合において、共同登記を無理に導入すれば、かえって周囲との軋轢を生み紛争を引き起こしかねない。

確かに女性は不利な立場に置かれている。しかしその中においても、女性たちは土地へのアクセスと最低限の権利を自ら確保し守ろうとしている。その彼女たちの置かれている状況や努力に対する理解なしに、男女の格差解消だけを声高に叫ぶのは、彼女たちによる努力や既存の限られたアクセスすら無にする危険性があることを忘れてはならない。自戒の念を込めて。(相川明子)

第21回:「マリと日本の間に姉妹都市を作りたい。」

第21回: 「マリと日本の間に姉妹都市を作りたい。」

■フランス在住のマリ人男性。フランスでアソシエーションを創設

■彼とはフランス滞在中の調査を通して知り合った。彼はソニンケというサハラ以南アフリカに居住する人々の一人で、パリ郊外に住み、ソニンケ人の子供たちのためのアソシエーションを運営している。ソニンケの言語、文化を子供たちへ伝えることと、彼の出自であるマリについて世界の多くの人々に知って貰うことに情熱を傾けており、その熱意と行動力には感服したものである。彼は調査の過程で日本への関心を抱くようになったが、上記の言葉は調査も終わりかけたある日に聞いたものである。

大半のソニンケの人々にとって日本は殆ど未知の国であるが、少なくとも敵対心は抱いていない。旧宗主国であるフランスへの感情とは大きな隔たりがある。フォワイエという単身者用の寮では、フランス人を見かけることは少なかったが、日本人である筆者への対応は大変に友好的であった。

この言葉にこめられた彼とその友人たちの期待に応える責務の重大さを痛感した次第である。(井形 和正)

第22回:「お金よりもheshima(尊敬、敬意)が先だ!」

第22回: 「お金よりもheshima(尊敬、敬意)が先だ!」

■タンザニア・女性・40代 県の教育課勤務の公務員

■これは、外国人ボランティアとこの発言者がジェンダー関係のシンポジウムを協同で開催した時に、その外国人ボランティアが年上である彼女(発言者)を敬う態度に欠けていたり、女性の権利や女性の解放についての考え方を押しつけるような発言をしたりと、シンポジウムの運営をめぐってこの両者が対立したことがありました。

この教育課の方は女性で、自らも女性の地位向上、教育レベルの向上について、もともと意識の高い人なのですが、その外国人の態度や言動に、タンザニアの(特に村)文化が全否定されたような印象を持ったのでしょう。この外国人による寄付もあってこのシンポジウムは開催でき、無事に終了したのですが、後日、この対立のショックを私にこぼした時に出た言葉です。

この時、「お金を出すから威張るのか?」という問いかけも聞きました。国際協力や開発に関係する者にとっては常に注意しなければならない、根元的なアフリカの人の本音(?)が出たと思われます。(橋場美奈)

第23回:虐殺の被害者、心の葛藤(ルワンダ)

第23回: 「心の中にわだかまりはある。でも殺し合いはもうイヤだ」

■あるルワンダ人青年(30代。ルワンダの首都キガリで運転手をしている)

■94年に約100万人が虐殺されたルワンダ。大多数は旧政権急進派によるプロパガンダで迫害された少数派ツチ。彼自身はフツの父とツチの母との間に生まれた「混血」である。そして彼は、虐殺で混乱していた国内を鎮圧するために闘争していた反政府勢力、ルワンダ愛国戦線(RPF)によって父を殺害された。その後RPFは新政府を発足し、現在にいたる。

現在ルワンダでは、虐殺事件を裁くための大衆法廷「ガチャチャ」が行われている。
「お父さんのことをガチャチャで証言しないのか?」という私の問いに彼は、「そんなことをしたら政府ににらまれるからね」と言った。

「それでいいの?」と言う私に、彼が語ってくれたのが、この言葉である。
この言葉の中に、多くのルワンダ人が心の中に抱えている葛藤を見たような気がした。(小峯茂嗣)

第24回: ねじ回しの研修 (タンザニア)

第24回: ねじ回しの研修 (タンザニア)
      「あなたはどこでねじ回しの研修を受けたんですか?」

■JICAが供与したマラリア診断用顕微鏡の活用状況確認のために、タンザニアの地方都市を巡回したときのこと、北部の都市・モシの検査室では、目が痛くなるので使用を停止したという。光が目に良くないのでは、と検査技師は訴える。

私が覗いてみると、単にステージの固定が甘く、視野が微動するせいだとわかった。

さっそく腰のホルダーからスイス・アーミーナイフを取り出し、十字ドライバーでビスを締めなおした。それを横で見ていた検査技師が、賞賛のまなざしで訊ねたのが、最初の言葉だ。

彼は高校卒業後、国内の専門学校で検査技師の資格をとった。しかしその訓練の中に「ねじ回し」という科目は無かった、という。

■タンザニアの関係者との議論が「研修」に及ぶたびに、私はずれを感じていた。
私の企画はタンザニア人がタンザニア人を訓練する現地国内研修(当時の名称では「第二国研修」)。ところがTrainingと聞いて彼らがまず思い浮かべるのは、欧米か、さもなくば日本に呼ばれて行くこと。「ねじ回しの研修」のために君らを日本まで送れるか、と悲しい植民地根性を罵倒したくなる。

だが、日本にも似たような話はある。もう数十年前になるが、ある大学の電気工学実習での会話。

「君はなんだ、ハンダづけもできないくせに電気工学を志望したのかね。こんなもの、中学生のうちに習得しておくものだ」
「先生、お言葉ですが、うちの中学校ではハンダ付けを教えてくれませんでした」

(JICA国際協力専門員・山形洋一)

第25回: HIV/AIDSの現実 (スワジランド)

第25回:  HIV/AIDSの現実 (スワジランド)

「彼女は亡くなったのよ。あなたが訪ねた3日後に。
    日々、私たちの患者の誰か がAIDSで亡くなる、それが現実」

■スワジランド王国にて地域在宅ケアをボランティアベースで展開しているカソリック系NGOでHIV/AIDS在宅ケアの調査をしていた2004年。私が数日前に訪ねたHIV/AIDS患者のその後の容態が気になり、コーディネーターのMrs.Marryに聞いたところ、このような答えが返ってきた。

■国連エイズ合同計画の報告によると、スワジランド王国の成人人口の約3分の1がHIVに感染し、世界で最も感染率の高い国である。その多くの人が検査にアクセスせず(できず)、また、適切な治療を受けることがなくAIDSへと進行し、死に至る。私が調査していた間にも患者がばたばたと亡くなっていった。

同国でのHIV/AIDS蔓延はHIV/AIDS孤児の増加や労働者・教育者の損失など、深刻な社会・経済問題となっている。状況は理解していたものの、ここまでひどいとは思ってもみなかった。国際社会はなにができるのだろうか・・。(岡 邦子)

第26回:ナイジェリア文学より

第26回: ナイジェリア文学より
      「彼は知っている。自分が道化であることを、銀河系最大の冗談であることを」

■エレチ・アマディ 氏 (Elechi Amadi )
「ビアフラの落日」"Sunset in Biafura" 1973年(志田均訳 緑地社)
(1934年生まれ。イクウェレ族出身。ザリアの陸軍学校に入隊。階級は大尉。
1965年除隊後教師の職に就くが、ビアフラ内戦時、拘留される。その後、連邦政府側の軍人として任務に就く)

■ナイジェリア出身の作家として、エレチ・アマディは、アフリカ初のノーベル賞作家ウォレ・ショインカほど著名ではなく、不当勾留のち処刑されたケン・サロ=ウィワほど環境破壊と少数民族の弾圧に命を賭けたわけでもない。また当作品は、ビアフラ内戦の体験記としてはやや物足りない部分も感じられ、彼自身、危険が迫ると大尉の経歴や縁故を生かして、生き延びるしたたかさも見える。

それでも私がアマディと彼のこの作品に惹かれるのは、自分自身を指して「戦時下、将校はまちがいなく消耗品」といいきる現実をふまえた上での無常感と、祖国の多部族国家としての将来への危機感、そしてこのザリアの丘で書いた詩に描かれた広大なる宇宙へのあこがれが、渾然一体となって人間の持つ哀しみを表しているからである。(井谷善惠)

第27回:ニジェール人の心の余裕

第27回: ニジェール人の心の余裕

      「On s’appele “Nigerien”, parce que, on a ‘rien’.」
      僕らはニジェリエンなのさ、なぜって、僕らには何もない(リエン)からに決まって
      いるじゃないか。

■ 1998年、首都ニアメにて。ある大学生の言葉

■仏語の発音は難しい。ニジェールで発音にとりわけ困った言葉の一つが「ニジェール人(Nigerien)」であった。気をつけないと「ナイジェリア人(Nigerian)」と混同してしまう。カタカナで表すと、前者は「ニジェリエン」、後者は「ニジェリアン」となるのだろうか。

当時、私を含め協力隊員の多くがニジェール人の若者に仏語を習っていたが、ある協力隊員がこの「ニジェール人とナイジェリア人」の区別の仕方について大学生の若者に尋ねると、即座に上記の一言が返ってきた。’rien’ は、仏語で「何もない」という意味。

なるほど。石油も豊富で産業も発達し、人口も1億を超える活気に溢れたナイジェリアと比べると、ニジェールは頼みのウラン鉱も売れなくなり、基盤の農業も乾燥化が進む自然環境の中で厳しい現実に向き合っている。若者の苦笑とともに飛び出してきたこの台詞は、しばらく協力隊員の中で笑いを誘うネタになった。

貧困そのものまでも冗談にして笑い飛ばしてしまうニジェール人の「心の余裕」のようなものを感じた。(関谷雄一)

第28回:「あいさつ」という言葉

第28回: 「あいさつ」という言葉

■風から逃れるように低く横に横にとひたすら広がって生きていこうとする樹木、大洪水の河水が乾期には消失するほどの渇き、このように圧倒される自然の厳しさの前に我々はただただたじろいでしまう。

厳しい自然の大地においても人々は生活を営んでおり、何十頭という牛を移動させている放牧の民に会い、笑顔での「あいさつ」を交わすこともある。

見知らぬ人間同士の笑顔での短い「あいさつ」がどのように生まれたかは分からないが、厳しい自然において、それは生活の知恵であると思う。他方、旧知の間では、それぞれの家族の安否を気づかう、長々とした「あいさつ」もある。場所や関係により、異なる「あいさつ」があり、アフリカでのその多様性に驚く。多分、それは多様な自然・生活環境を反映しているのかもしれない。 (渡辺淳一)

第29回:ジャニーズ系ケニア人に出会う

第29回: ジャニーズ系ケニア人に出会う

     「ケニア、つまらないでしょ?僕、超つまんない。日本に帰りたい」 (日本語で)

■ケニア人青年。マタトゥ(公共乗り合いバス)の車掌。2002年、ナイロビにて

■観光客相手のあやしげな「こんにちは」を聞くことはあっても、日本人以外から普通の日本語を聞くことはほとんど皆無のナイロビ。マタトゥに乗ったら、とても流暢な若者言葉で話しかけてくれた車掌さんがいました。

日本に6年いて、4カ月前に帰国。いたのは東京。やっていたのは、何と「ジャニーズ」だというのです。ジャニーズのバックで踊っている人たちの中には黒人がいると、そのとき同僚から教えてもらいました。リズム感のよいアフリカ人がスカウトされているのかもしれません。

ケニアへ行くまで私にとってアフリカはとても遠かったけれど、実際にはいろんな形でつながっているのだということを、改めて気づかせてくれた出来事でした。でも、お兄さんは日本へ帰りたがっていたけれど、ジャニーズ・ジュニア卒業年齢になって、使い捨てのように放り出されたのではないかということも、気になりました。その後、お兄さんとは再会していません。ケニアで何をやっているのかなと、今でもときどき気になります。(藤目春子)

第30回:初心に戻って納得の一言 (セネガル)

第30回:初心に戻って納得の一言

     「農民はそれぞれが、それぞれの戦略を持っている。
                  彼らの戦略を私たちが理解していくことが必要なんだ」

■ENDA-GRAF:ママドウ氏。白書2号4章作成のプロセスから。2006年セネガル・ダカールにて

■TCSF白書のアフリカから見た日本の援助ですでに皆様にもおなじみのママドウ氏。
今夏、白書2号4章作成を進めるミーティングでの彼の一言に「ドキッ」としました。

この一言はとても基本的なことですが、実行するのはなかなか難しい。
「援助する側の都合」が最終的には優先してしまわないように、民衆の声を本当に聴ける耳とハートを持ち続けたいと思います。言うほど簡単ではないことは分っています。でも不可能ではないですよね。

(Komi KEITA UCHINO)

第31回: 彼女の解決策 (セネガル)

第31回: 彼女の解決策

      「必要なお金、どうやって稼げばいいかな?」

■セネガルの小さな町に生まれ・育ち・住む25歳の女性、ボデ。
6歳の子どもがいるがその父親はどこかに遠くに行ってしまい、彼からの仕送りはない。子ども、友達の女性、その子どもの4人で住んでいる。無職

■私がセネガルに住んでいた時友達になったボデ。週末にはよく一緒にブラブラと町の中を歩いていたが、ある時彼女がこんな相談をしてきた。そして私は返答に窮してしまった。

読み書きは困難だし、何か技術を持っているわけでもなければ、野菜を育てているわけでもない。家の中で、一テーブルの小さな商店をやりたいとは言っているが、それを始める手持ち金はない。首都に出ても仕事はそう簡単には見つからない。さて彼女は何をやれるのか。

ボデのこの質問で、彼女や彼女と同じような状況の人が直面している困難の打開策を、初めて真剣に考えるようになった。日本に帰ってきた今も、開発のことを考える際には、「それが彼女(または彼女と同様の立場の人)にどんな利益をもたらすのか」と常に自分に問い掛けている。

ちなみに私の帰国後、結局ボデはある男性の第二夫人になるという解決策に辿り着いた。(吉田美樹)

第32回:子どもの本を出版する人々 (タンザニア)

第32回  子どもの本を出版する人々 (タンザニア)

■アフリカの教育制度に関心を持つ日本人は多いが、アフリカ人の教育文化に関心を持つ人々は少ない。タンザニアでは、ODA/NGOの報告書・パンフレットが目に付く一方、細々ながらも、子ども向けの本を地道に刊行しようとしている人々がいる。

■青少年向け教育雑誌『Academia』(英語・スワヒリ語、定価約30円)の編集者は、週刊を目指し「全小学校13,000校に配布する」ことを夢見て創刊した。

いつしか雑誌は月刊になり、特集号「HIV/エイズ特集」への支援30万円をJICA事務所長(青木)に断られた後、ほどなくして雑誌は姿を消した(私の2年間の購読料も)。

2002年タンザニア「こどもの本最優秀賞」を、未就学少女の学ぶ意欲をテーマにした『ウペンドーの夢』(スワヒリ語)で受賞したElieshi Lemaは、一貫して少女や女性の置かれた課題を追って頑張っている。
彼女自身は出版業も兼ねているが、「出版社が原稿料を払ってくれなかったりして、作家の生活は楽ではない」と嘆く。1冊200~300円の定価は子どもには高く、買うのは外国人か一部のタンザニア人だけで、実は出版社も楽ではない。書店も少なく、小学校には図書室がない。

援助機関も手をこまねいているわけではない。エイズやドラッグ問題を中心に、ファッションやスポーツ記事を盛り込んだ青少年向け季刊誌『Femina』(スワヒリ語・英語)を支援し、「子どもの本プロジェクト」を支えているのは、SIDA(スウェーデン国際開発協力庁)やNORAD(ノルウェー開発協力庁)である。

教科書や聖書・コーラン以外の本に接する機会はなく、薄っぺらい絵本にすら食らいつく子どもたち。「もっとたくさん読んで、いろいろなことを知りたい」。

2年間に8000人が訪れた、ゴザを敷いただけの私たち夫婦の「木の下こども図書館」。その子どもたちの声に応えるのは、作家や出版社にとっていばらの道でもある。

(中部大学 青木澄夫 前タンザニアJICA所長)

編集部注:青木さんはタンザニア在住時、自宅の庭を子どもたちに開放し、スワヒリ語の本を集めた子どものための図書館をボランティアで運営していました。

第33回:「ほっとけない?・・ほっといていいでしょう」 ウガンダ

第33回:「ほっとけない?・・・・、ほっといていいでしょう」(ウガンダ)

■「あんたのブラザーが日本から来ているよ」
活動任地で、行きつけの飲み屋のマーガレットに言われた。そこは、2階以上がホテルになっている、ウガンダではよくあるタイプの飲み屋である。夜になると、たまに娼婦もいて近づいてくる。

飲み始めて、しばらくすると明らかにアフリカ人ではない男が下りてきた。
私 「こんにちは。日本の方ですか?」
相手 「ほう、ここにも日本人がいたんだ」

それから彼が任地を離れる2週間、お互い時間があえば一緒に飲んだ。
彼はJICAプロジェクトで雇われた日本人。20年以上にわたって途上国の人々に水源を供給してきた井戸掘り職人。その大半がアフリカ大地での活動であった。今回も井戸を掘りに、こんなウガンダの地方までやって来た。

私は、開発コンサルの仕事を目指していたので、彼の今までの経験、知識、そして彼の持っている開発の思想などいろいろたずねてみた。彼の今までの経験は私の知らないことばかりであり、身を乗り出して話を聞いていた。

■一番印象に残っているのは、
「アフリカの援助? ほっといていいでしょう。彼らは彼らなりに楽しくやっているのに」。
この言葉に半分賛成、半分納得せず、今の活動を続けている。(五十嵐真)

第34回:「ひとりで食べる者はひとりで死ぬ」 (エチオピアのことわざ)

第34回:「ひとりで食べる者はひとりで死ぬ」 (エチオピアのことわざ)

■アジスアベバの食堂でお茶を飲んでいると、となりのテーブルで食事をしている人から「一緒に食べようよ」と唐突に声をかけられることがある。

にっこり笑って「もう食べましたから」と返事すると、相手は安心して自分の食事を続ける。

■エチオピア人が食事を始めるとき、周囲に「一緒に食べよう」と声をかけるのは、日本人の「頂きます」と同じくらい、自然と口をついて出てくる言葉だ。

ただし最近では、この習慣を改めるべきだと主張するエチオピア人も多い。

「我国では、家族の食事にも困っている者が多いのに、見栄をはって他人に食事を勧めている場合ではない」というのが、その理由だ。

なるほど豊かな国の国民が、ひとりで食事することに慣れているのに、「貧しい」エチオピアの国民が、誰かに食事を分け与えようとするのは、何とも皮肉に思えるかもしれない。

しかし他人と食事を分け合うことは、私たちが社会を築いていくうえで、もっとも基本的な行いのひとつではなかっただろうか。貧しい人々は、ひとりで食べることを学んだら豊かになるのか。それとも豊かな人々が、他人と食事を分け合うことを学ぶべきなのだろうか。(西 真如)

第35回:カレンジンにとって走ることは、ブラジルのサッカーと同じさ!(マラソン王国ケニア)

第35回:カレンジンにとって走ることは、ブラジルのサッカーと同じさ!

(ケニア北西部リフトバレー州イテンの住民)

■2000年シドニー五輪を前に、NHKの「地球に乾杯」という番組が、ケニアのマラソンが強い理由を特集したとき、取材チームを案内して標高2500mのイテンを訪れた。そのとき、通りがかりの男性がインタビューに答えたこの一言が、私には印象的だった。

■イテンは人口数千人の小さな町にもかかわらず、周辺から五輪の金メダリストを何人も輩出していることで有名だ。この町を「Heart of Running(ランニングの中心地)」と呼ぶ人もいる。さらに、マラソンの世界ランキング上位者の7割は、イテンを含むリフトバレー州に暮らす、人口360万人ほどのカレンジン民族が占めている。

世界食糧計画(WFP)の飢餓撲滅大使として、マラソン世界記録保持者のポール・テルガトが登場するテレビCMを最近よく目にするが、彼もまたカレンジンだ。

CMでは給食の提供により学校に行く子どもが増える効果がアピールされていたが、ケニアの就学率の高さが、子どもたちのスポーツに触れるチャンスを増やしたことは間違いない。

テルガトが03年にベルリンで世界記録を打ち立てたとき、手にした賞金は数千万円にのぼる。貧富の差に関係なく、実力があれば誰もが豊かになるチャンスがあるマラソン選手は、今ではカレンジンの子どもたちにとってあこがれの“職業”となっている。ブラジルでは、「ストリートチルドレンが貧困から抜けだす手段はサッカー選手になることだ」と言われているが、似た現象といえるだろう。

冒頭の一言で男性は、「ブラジルの人気スポーツはサッカーだけど、この地域ではランニングだよ」ということを言いたかったのだと思う。深読みした私だが、スポーツもこうして背景を考えてみると、アフリカの今が見えてきて興味深い。 (関 幸生)

第36回:「フランスでの一番の困難? 孤独感だよ。」 セネガル人の孤独

第36回:「フランスでの一番の困難? 孤独感だよ。」

■フランス・リヨンに留学中のセネガル人大学生

知り合いのいないフランスに来てから、数々の困難に遭ってきたというセネガル人学生の友人がいる。彼は、フランスに到着したその日には野宿、その後フォワイエ(単身者用の寮)入居、金銭トラブル、学生寮への入居も拒否される。

学業でもセネガルの大学のときのように上手くはいかない。耐え切れずにイタリアにいる知人のもとに転がり込んだこともある。「こんなの知ってたら絶対来なかった」と言い切る。

もともとダカールで学生をしていた彼は、セネガルにいる学生たちの苦労もよく知っている。それでも、「どっちにしろ苦労するならダカールで大学生を続けていたかった」と。

■そんな彼に「フランスでの一番の困難って何?」と質問を投げかけた。

返ってきた答えは「孤独感だよ」。

どんなトラブルよりも「孤独感」が一番の困難だと即答したことに正直驚いた。

フランスに溶け込むことなくセネガルの生活、習慣、マナーをリスペクトし、厚い信仰心を持つ。「セネガルにいるセネガル人よりも自分はセネガル人だと思う」とも話す。

テランガ(ホスピタリティの意味)の国・セネガルからやってきた彼は、「孤独感」を紛らわせるかのように、現在、リヨンでダイラ(セネガルのイスラム一宗派・ムリッドの組織)の学生代表を務めて多忙な日々を送っている。(森 英麻)

第37回:饒舌なウィンカー (タンザニア)

第37回:饒舌なウィンカー (タンザニア

■タンザニアの首都ダルエスサラームからケニア国境近くの町モシまで、陸路を往復したことがある。

■四輪駆動のサファリはボディもがっちりしていて、なかなか快適な走りだ。車高が高いので、窓から広がる風景はすばらしい。援助で作られたという道路はほとんど人家もない荒野を貫くように伸びている。ほかに車もほとんど見当たらず、ドライバーは気持ちよさそうにびゅんびゅんとスピードを上げる。
車内にはリンガラ・ミュージックがガンガン流れる。

やがて前方にたくさんの人を乗せたトラックが見えてきた。ドライバーが追い越しにかかろうとして右のウィンカーを点滅させたら、前のトラックが左のウィンカーをすかさず点滅させた。するとドライバーは追い越すのをやめて、前のトラックの後ろにつく位置に戻ってしまった。

どうしたんだろう? 不思議に思っていると、対向車線の車が通り過ぎた。また、ドライバーが右のウィンカーを点滅させる。今度は前のトラックが右のウィンカーを点滅させた。それを確認すると、ドライバーはスーッと追い越し車線に入って前のトラックを追い越した。

こうした前の車とのウィンカーを使った交信は、その後、ドライバーが追い越しをするたびに繰り返された。残念ながらドライバーは英語を話さないので、事情が分からない。でも、追い越しをしたい車がウィンカーを点滅させると、前にいる車は前方の反対車線から車が来ているか、いないかをウィンカーの点滅で知らせているようなのだ。左を点滅させると「前方に車あり。まだ追い越さないほうがいいよ」、右を点滅させると「追い越しても大丈夫」ということらしいと解釈した私は、とっても感激してしまった。いいよね、こんなコミュニケーション。

あれから10年以上の月日が経ってしまったが、今でもタンザニアのドライバーたちは、ウィンカーを通した会話を続けているのだろうか。

** タンザニアでは、車は左側通行です。前の車のウィンカー点滅で、左が追い越し不可、右が追い越し可だったと記憶しているのですが、逆だったかもしれません。なにしろ、少しばかり昔のことですから。 (佐田桂子)

第38回:「整髪料を貸してくれないか」 ケニア

第38回:「整髪料を貸してくれないか」 ケニア

■一昨年の9月に社会林業調査のスタディツアーでケニアを訪れたときのことです。

そのツアーの中でマサイ族の家へ1泊ホームステイしました。ホームステイ先から戻る際、その家族の長男で、ホームステイのガイドをしてくれた男性が突然、私にこう尋ねてきました。

始めはそんなものが珍しいのかなと思ったのですが、夜に開かれた親睦会でその理由が分かりました。

実は彼は親睦会で披露されたマサイ族のダンサーの一員だったのです。そのダンスの前に身なりを整えたかったのでしょう。

このツアーが私にとってアフリカ初体験だったわけですが、アフリカ現地の人々との直の交流から得られた一番の収穫は、彼らはは決して「貧困にあえぐ、かわいそう」な人なのではなく、我々日本人とそう変わらず、いたって「普通」なんだということに気づかされたことです。

ただ生まれた場所の違いだけで、全く異なった生活をせざるをえない。たまたま豊かな地に生をうけた者として何かできるのではないか、何かしたい、そう強く感じたスタディツアーになりました。
(伊芸研吾)

第39回: 名士の言葉 タンザニア

第39回: 名士の言葉 タンザニア

「いつ実施されるかは誰にもわからないけれど、機会が訪れたとき具体的に
  説明できるように、計画が必要なのです」

■タンザニア北部の農村の村長で県議会議員(当時)だった サミュエル・モシさん。
         自ら自動車修理工場や旋盤などの工場を経営する実業家)

■もう10年以上も前になりますが、タンザニア北部キリマンジャロ山麓のとある農村で、農業調査をしていました。

そこでは畑作物とともに、河川水を水源として灌漑し、コメを栽培していましたが、河川水量が少なく不安定なため、水田全体に灌漑水を行きわたらせることは難しく、塩害や干ばつによって不作となっていました。そこで、コメの収量向上と安定生産のために、補助水源として近隣にある泉の水を利用した灌漑計画を作ることになりました。

そして、計画はできあがりましたが、実施されるかどうかは私たちにも確約はできません。そのことを伝えた時に、モシさんから上の発言がありました。

物事はすぐには動かないけれど、その時が来るまでに準備をしておくことが大事であることを、彼はよく知っていました。「調査はもう十分だから、すぐにプロジェクトを実施してくれ」とよく言われてきたコンサルタントの私には、大変勇気づけられる一言でした。

彼は、キリマンジャロ山麓の村で11人兄弟の末っ子に生まれました。家族全員を養える食料が確保できなかったことから、幼い頃に家を出され、山を下りたそうです。その後奨学金などを貰い、中学校を卒業し、さらにジンバブエの大学を卒業したというサクセスストーリーの持ち主です。幼い頃は相当苦労したそうですが、その分、いろいろな夢を実現するのに時間と辛抱が必要であることを身をもって体験し、よく理解しているのかも知れません。人柄も良く、外国人の知り合いも多いモシさん、今頃、どうしているかなぁ。

なお、この計画は、調査の一環として、実証試験という名目で一部が実施されました。水田の下流域は水不足から解放され、生産は増加し、計画の妥当性は立証できました。(君島 崇)

第40回:難民と苗木 (チャドのスーダン難民)

「彼らがスーダンに植えた木が大きく育っているのだから、私たちもチャドに木を植えたいのです」

■2005年、チャド東部に設置されたスーダン難民キャンプで育苗・植林活動にかかわっていた時のことです。

■私が活動にかかわり始めた当初は、多くの難民が、食料、医療、水のような生活に直結する支援しか受け入れない傾向にありました。事実、植林により、即生活が改善するわけではありません。私たちは、生産した苗木のうち、難民が積極的に植樹してくれる苗はわずかなのではないかと危惧していました。

しかし、6月の植樹の時期、現場のスタッフから入ったのは、苗木を求めに来る難民が多いという喜ばしい情報。上の言葉は、木を植えたいとやって来たある難民の声です。

80年代、チャド人が難民としてスーダン側に滞在していた時期がありましたが、その時にチャド難民が植えた木が現在スーダン人の生活の一部となっているそうです。紛争に翻弄された両国の住民がお互いを思いやる気持ちに触れ、私の心も和んだ瞬間でした。 (竹越久美子)

第41回: 質問多いね! エチオピア

第41回: 質問多いね! 

■エチオピアコーヒー名産地 イルガチャッフェ豆洗浄・選別工場長

■アフリカの小学校の授業の一般的なスタイルは、先生が一方的に板書をしながら講義をするというものです。子どもの声がすると思ったら、だいたいが先生の後に続く復誦です。

そう、クラスの中で積極的な質問はほとんど聞かれません。

学生は教室の外でも大学生になっても質問の習慣がないため、あるいは先生の権威が絶対だからか、黙々と知識を吸収しています。大人になっても、質問ができないから、わからなくとも、「はい」と言います。エチオピアで暮らしていた頃、「わからないんだったら、聞いて!」と我が家のスタッフに対して一人で怒っていたものです。しかし冷静に考えてみると、彼らは質問ができる環境で訓練されていないんですよね。

そんな中、アフリカ理解プロジェクト代表の白鳥くるみさんとTCSF理事の白鳥清志さんと一緒にエチオピアコーヒーの名産地、イルガチャッフェに行くことにしました。

アジスアベバを早朝6時に出発し、ケニアまで続くきれいな舗装道路を突っ走っても到着したのは正午。これだけ遠いイルガチャッフェですが、百聞は一見に如かず、行ってみる価値は十分にあります。

とにかく緑も人々の生活もエチオピアの一般的な農村と比べるととても豊かに見えます。コーヒーの生豆を洗浄し、選別する工場は、きれいな湧き水が出る山の斜面に位置していました。残念ながら工場は稼動していなかったため、コーヒー農家の農民と洗浄・選別要員が総勢数千人も作業している圧巻の光景は見られませんでしたが、工場長が通訳を介してプロセスを簡単に説明してくれました。

通訳の説明が終わらないうちに、3人が代わる代わる我も我もと質問するものだから、工場長は圧倒されたようです。質問が落ち着いたときに工場長が発したのが冒頭の一言。

彼にとって、見学に来るお客様は「説明をだまって聞く人たち」という考えがあったのでしょう。

「イルガチャッフェ」ブランドの商標が取れた今、地域の人たちは経済的にはさらに豊かになるでしょう。その豊かさと引き換えに、豊かな自然が失われなければいいなという思いを胸に帰途につきました。(國枝美佳)

第42回:クリスチャンが教えてくれたイスラムの教義 マラウイ

第42回:クリスチャンが教えてくれたイスラムの教義 マラウイ

■「ムスリムの場合は、面倒さえ見ればたくさん奥さんを持っていいんだ。
宗派によって持てる数は違うけれど、2人、4人、6人、と必ず偶数なんだ。
それは奥さん同士でおしゃべりする相手がいて、寂しくないようにするためなんよ。」
(クリスチャン、30代前半の男性)

■マラウィアンは“My hobby is chatting”というくらいおしゃべり好き。
仕事で遠出すると、移動中の車の中でおしゃべりがはずみます。

この前、エネルギー局の同僚2人と地方電化の調査で未電化村に出かけ、電気を使う可能性のある施設としてメイズミル(とうもろこし製粉所)やお店、学校や保健所のほか、教会やモスクの数を調査しました。それで次のサイトへの移動中、いろいろな宗教で許されていること、いないことが話題になりました。

「クリスチャンの場合、カトリックはお酒を飲んでいいけど、長老派は飲んじゃ駄目なんだ。だからお酒を飲みたかったらカトリック教会のメンバーになった方がいいよ」などと冗談半分で話していた彼ら。

ムスリム人口は2割と言われるマラウイで、クリスチャンの彼らがしたり顔で説明してくれたイスラムの教義がこれ。

私はイスラムの教義にはまったく疎いので真偽の程はわかりかねるのですが、「おしゃべりする相手がいて寂しくないように」というあたりが、おしゃべり好きなマラウィアンらしい解釈だと思い、おかしくなりました。(本当だったりして。どなたか教えてください。 小林由季)

第43回:僕は、この国を去らない ジンバブエ

第43回:僕は、この国を去らない ジンバブエ

■「この国は、みんなが去りたいと願っている国なんだ。
だけど僕は、この国を去らない。ここは僕の国なんだよ」

              (ジンバブエ 30歳、男性、NGO勤務)

■いわゆるジンバブエ人ディアスポラとして国外に出てしまったジンバブエ人が400万人にのぼるとすらいわれています。

IMFは、ジンバブエのインフレ率(年率)が年末には10万%に到達するであろうとしています。
実際、政府による強制的な価格統制の導入が物不足に拍車をかけ、ジンバブエの経済状態はすでに崩壊状態になってしまいました。

医師や教師などのスキルある人々だけでなく、もはや国民の多くが南アなどの近隣諸国や英国へ職を求め、国内の家族を経済的に支えなくては生活ができない状態となりました。

政治的混乱と経済の悪循環は、豊かな国であったジンバブエを、その国民を追い詰めています。

この言葉を述べた彼は、政府に睨まれながらもメディア系のNGOで人権活動を行っている活動家のひとりです。(あふりかくじら)

第44回:「久しぶり!」の後に続いた言葉は・・・(ジンバブエ)

第44回 「久しぶり!」の後に続いた言葉は・・・

■TCSFで2007年4月から働くことが決まった時、「この目で、まだ見たことのないアフリカへ行ってみたい!」という思いから、4月のTCSF研修期間に10日間の休みをもらい、アフリカへ行きました。

行先は、ジンバブエ。

政治状況が最悪と言われているジンバブエになぜ?と知り合いに散々言われたものの、理由は単純。友人がJICAの青年海外協力隊でジンバブエにいただけのこと。

■長い岐路の後、ハラレ国際空港に着き、「久しぶり!」の後に友人から聞いた言葉は、「人がいるところでは大統領の名前を口にしないでね」でした。

この言葉に、少し尻ごんでしまいましたが、実際にハラレの街を歩いてみると、それほど危険なものではなく(もちろん、夕方以降は出歩かず、危ない所には一切近寄らなかったからですが)、それどころか、人々の笑顔に驚かされました。

貧しく苦しい生活をしている人々でも、こちらがほほ笑めば、ニコっと笑って返してくれる。こんなに遠い日本とアフリカ、全く違う世界だと思っていたアフリカですが、アフリカをとても身近に感じた、私の初アフリカ旅行でした。(山田 真理子)

第46回:日本に興味を持つ人々(エチオピア)

第46回:日本に興味を持つ人々(エチオピア)


■「あなたもご存知のように英文で書かれた『将軍』は、2015ページという長編で、読破するのは容易ではありません。私も読み始めたのはいいですが、418ページにたどり着くまで相当な時間がかかりました。

なぜ418ページを鮮明に覚えているかというと、このページから日本の社会のシステム、日本という国がどう成り立っているのかが書かれていたからです。

私は目から鱗の落ちる思いで残りのページを一気に読み上げました。
それからです。日本のことがとても気になり始めたのは・・・」

(エチオピアの小学校の先生の言葉)


■エチオピアの人はアジアにかなりの興味を持っています。日本製や韓国製の車や電化製品が多く売られていますし、近年成長が目覚しい中国も注目の的です。他のアフリカ諸国でも、同様のことが言えると思います。

ところで、エチオピアでは年配の人は日本についてよく知っています。なぜなら、昔、勤勉な日本のことが教科書に載っていたからだそうです。

今も日本は、勤勉のお手本となれるのでしょうか。(白鳥清志)

第45回:人生は楽じゃない・・・(マラウイ)

第45回:人生は楽じゃない・・・(マラウイ)

■「水草は水に浮いているだけで楽かもしれないけれど、それは人間の暮らしとは言えないんじゃないかな」

■マラウイに来てまもなくのこと。天気のいい日にマラウイ湖までドライブし、橋で休憩したとき、水面にたゆたう水草が見えました。

「水草はいいなぁ、ああやって浮いているだけでいいんだから」と言ったところ、
30代前半のドライバーさんから上記の反応。

いつも冗談ばかり言って人を笑わせていた彼が「人生は楽なだけじゃないよ。人間なんだから働かなくちゃ」とつぶやきました。

■当時私は独身貴族。一方、同年代の彼の方は中学卒業後、離婚したお母さんや弟の面倒をみるために働き始め、既に5人の子持ち。

背負っている“responsibility”の重さの違いを思い知らされた瞬間でした。(小林由季)

第45回:人生は楽じゃない・・・(マラウイ)

第45回:人生は楽じゃない・・・(マラウイ)

■「水草は水に浮いているだけで楽かもしれないけれど、それは人間の暮らしとは言えないんじゃないかな」

■マラウイに来てまもなくのこと。天気のいい日にマラウイ湖までドライブし、橋で休憩したとき、水面にたゆたう水草が見えました。

「水草はいいなぁ、ああやって浮いているだけでいいんだから」と言ったところ、
30代前半のドライバーさんから上記の反応。

いつも冗談ばかり言って人を笑わせていた彼が「人生は楽なだけじゃないよ。人間なんだから働かなくちゃ」とつぶやきました。

■当時私は独身貴族。一方、同年代の彼の方は中学卒業後、離婚したお母さんや弟の面倒をみるために働き始め、既に5人の子持ち。

背負っている“responsibility”の重さの違いを思い知らされた瞬間でした。(小林由季)

アフリカ人の声をきけ:アフリカ2008キャンペーン