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2007年07月 アーカイブ

2007年07月19日

第37回:饒舌なウィンカー (タンザニア)

第37回:饒舌なウィンカー (タンザニア

■タンザニアの首都ダルエスサラームからケニア国境近くの町モシまで、陸路を往復したことがある。

■四輪駆動のサファリはボディもがっちりしていて、なかなか快適な走りだ。車高が高いので、窓から広がる風景はすばらしい。援助で作られたという道路はほとんど人家もない荒野を貫くように伸びている。ほかに車もほとんど見当たらず、ドライバーは気持ちよさそうにびゅんびゅんとスピードを上げる。
車内にはリンガラ・ミュージックがガンガン流れる。

やがて前方にたくさんの人を乗せたトラックが見えてきた。ドライバーが追い越しにかかろうとして右のウィンカーを点滅させたら、前のトラックが左のウィンカーをすかさず点滅させた。するとドライバーは追い越すのをやめて、前のトラックの後ろにつく位置に戻ってしまった。

どうしたんだろう? 不思議に思っていると、対向車線の車が通り過ぎた。また、ドライバーが右のウィンカーを点滅させる。今度は前のトラックが右のウィンカーを点滅させた。それを確認すると、ドライバーはスーッと追い越し車線に入って前のトラックを追い越した。

こうした前の車とのウィンカーを使った交信は、その後、ドライバーが追い越しをするたびに繰り返された。残念ながらドライバーは英語を話さないので、事情が分からない。でも、追い越しをしたい車がウィンカーを点滅させると、前にいる車は前方の反対車線から車が来ているか、いないかをウィンカーの点滅で知らせているようなのだ。左を点滅させると「前方に車あり。まだ追い越さないほうがいいよ」、右を点滅させると「追い越しても大丈夫」ということらしいと解釈した私は、とっても感激してしまった。いいよね、こんなコミュニケーション。

あれから10年以上の月日が経ってしまったが、今でもタンザニアのドライバーたちは、ウィンカーを通した会話を続けているのだろうか。

** タンザニアでは、車は左側通行です。前の車のウィンカー点滅で、左が追い越し不可、右が追い越し可だったと記憶しているのですが、逆だったかもしれません。なにしろ、少しばかり昔のことですから。 (佐田桂子)

第38回:「整髪料を貸してくれないか」 ケニア

第38回:「整髪料を貸してくれないか」 ケニア

■一昨年の9月に社会林業調査のスタディツアーでケニアを訪れたときのことです。

そのツアーの中でマサイ族の家へ1泊ホームステイしました。ホームステイ先から戻る際、その家族の長男で、ホームステイのガイドをしてくれた男性が突然、私にこう尋ねてきました。

始めはそんなものが珍しいのかなと思ったのですが、夜に開かれた親睦会でその理由が分かりました。

実は彼は親睦会で披露されたマサイ族のダンサーの一員だったのです。そのダンスの前に身なりを整えたかったのでしょう。

このツアーが私にとってアフリカ初体験だったわけですが、アフリカ現地の人々との直の交流から得られた一番の収穫は、彼らはは決して「貧困にあえぐ、かわいそう」な人なのではなく、我々日本人とそう変わらず、いたって「普通」なんだということに気づかされたことです。

ただ生まれた場所の違いだけで、全く異なった生活をせざるをえない。たまたま豊かな地に生をうけた者として何かできるのではないか、何かしたい、そう強く感じたスタディツアーになりました。
(伊芸研吾)

第39回: 名士の言葉 タンザニア

第39回: 名士の言葉 タンザニア

「いつ実施されるかは誰にもわからないけれど、機会が訪れたとき具体的に
  説明できるように、計画が必要なのです」

■タンザニア北部の農村の村長で県議会議員(当時)だった サミュエル・モシさん。
         自ら自動車修理工場や旋盤などの工場を経営する実業家)

■もう10年以上も前になりますが、タンザニア北部キリマンジャロ山麓のとある農村で、農業調査をしていました。

そこでは畑作物とともに、河川水を水源として灌漑し、コメを栽培していましたが、河川水量が少なく不安定なため、水田全体に灌漑水を行きわたらせることは難しく、塩害や干ばつによって不作となっていました。そこで、コメの収量向上と安定生産のために、補助水源として近隣にある泉の水を利用した灌漑計画を作ることになりました。

そして、計画はできあがりましたが、実施されるかどうかは私たちにも確約はできません。そのことを伝えた時に、モシさんから上の発言がありました。

物事はすぐには動かないけれど、その時が来るまでに準備をしておくことが大事であることを、彼はよく知っていました。「調査はもう十分だから、すぐにプロジェクトを実施してくれ」とよく言われてきたコンサルタントの私には、大変勇気づけられる一言でした。

彼は、キリマンジャロ山麓の村で11人兄弟の末っ子に生まれました。家族全員を養える食料が確保できなかったことから、幼い頃に家を出され、山を下りたそうです。その後奨学金などを貰い、中学校を卒業し、さらにジンバブエの大学を卒業したというサクセスストーリーの持ち主です。幼い頃は相当苦労したそうですが、その分、いろいろな夢を実現するのに時間と辛抱が必要であることを身をもって体験し、よく理解しているのかも知れません。人柄も良く、外国人の知り合いも多いモシさん、今頃、どうしているかなぁ。

なお、この計画は、調査の一環として、実証試験という名目で一部が実施されました。水田の下流域は水不足から解放され、生産は増加し、計画の妥当性は立証できました。(君島 崇)

第40回:難民と苗木 (チャドのスーダン難民)

「彼らがスーダンに植えた木が大きく育っているのだから、私たちもチャドに木を植えたいのです」

■2005年、チャド東部に設置されたスーダン難民キャンプで育苗・植林活動にかかわっていた時のことです。

■私が活動にかかわり始めた当初は、多くの難民が、食料、医療、水のような生活に直結する支援しか受け入れない傾向にありました。事実、植林により、即生活が改善するわけではありません。私たちは、生産した苗木のうち、難民が積極的に植樹してくれる苗はわずかなのではないかと危惧していました。

しかし、6月の植樹の時期、現場のスタッフから入ったのは、苗木を求めに来る難民が多いという喜ばしい情報。上の言葉は、木を植えたいとやって来たある難民の声です。

80年代、チャド人が難民としてスーダン側に滞在していた時期がありましたが、その時にチャド難民が植えた木が現在スーダン人の生活の一部となっているそうです。紛争に翻弄された両国の住民がお互いを思いやる気持ちに触れ、私の心も和んだ瞬間でした。 (竹越久美子)

第41回: 質問多いね! エチオピア

第41回: 質問多いね! 

■エチオピアコーヒー名産地 イルガチャッフェ豆洗浄・選別工場長

■アフリカの小学校の授業の一般的なスタイルは、先生が一方的に板書をしながら講義をするというものです。子どもの声がすると思ったら、だいたいが先生の後に続く復誦です。

そう、クラスの中で積極的な質問はほとんど聞かれません。

学生は教室の外でも大学生になっても質問の習慣がないため、あるいは先生の権威が絶対だからか、黙々と知識を吸収しています。大人になっても、質問ができないから、わからなくとも、「はい」と言います。エチオピアで暮らしていた頃、「わからないんだったら、聞いて!」と我が家のスタッフに対して一人で怒っていたものです。しかし冷静に考えてみると、彼らは質問ができる環境で訓練されていないんですよね。

そんな中、アフリカ理解プロジェクト代表の白鳥くるみさんとTCSF理事の白鳥清志さんと一緒にエチオピアコーヒーの名産地、イルガチャッフェに行くことにしました。

アジスアベバを早朝6時に出発し、ケニアまで続くきれいな舗装道路を突っ走っても到着したのは正午。これだけ遠いイルガチャッフェですが、百聞は一見に如かず、行ってみる価値は十分にあります。

とにかく緑も人々の生活もエチオピアの一般的な農村と比べるととても豊かに見えます。コーヒーの生豆を洗浄し、選別する工場は、きれいな湧き水が出る山の斜面に位置していました。残念ながら工場は稼動していなかったため、コーヒー農家の農民と洗浄・選別要員が総勢数千人も作業している圧巻の光景は見られませんでしたが、工場長が通訳を介してプロセスを簡単に説明してくれました。

通訳の説明が終わらないうちに、3人が代わる代わる我も我もと質問するものだから、工場長は圧倒されたようです。質問が落ち着いたときに工場長が発したのが冒頭の一言。

彼にとって、見学に来るお客様は「説明をだまって聞く人たち」という考えがあったのでしょう。

「イルガチャッフェ」ブランドの商標が取れた今、地域の人たちは経済的にはさらに豊かになるでしょう。その豊かさと引き換えに、豊かな自然が失われなければいいなという思いを胸に帰途につきました。(國枝美佳)